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(3)初めての研究発表(『湯川秀樹日記』を読む ― ノーベル賞論文の発表と執筆の頃)

Posted on 2009年12月14日

1933(昭和8)年4月3日(26歳)日本数学物理学会で「核内電子の問題に対する一考察」と題して口頭発表する。これは湯川の初めての学会発表。この発表はまだ最後の詰めのところが解決してない中途段階のものであったが,仁科芳雄からは貴重なコメントがあった。(★このテーマが成長していって,やがてノーベル賞論文につながる。)
(村田 年)

(2)量子論を専攻する(『湯川秀樹日記』を読む ― ノーベル賞論文の発表と執筆の頃)

Posted on 2009年12月13日

湯川は三高の3年生のとき,フリッツ・ライヘの『量子論』を読み,大きな刺激を受ける。まだ誕生間もない量子力学は暗中模索の段階で,矛盾と混乱に満ちていたからこそ,かえって湯川に大きな夢と刺激を与えたようだ。

京都帝国大学理学部物理学科に進学し,3年生の卒業研究を決める段階でも,京大には量子論を専門とする先生はいなかったので,同級の朝永振一郎とともに力学・相対論の玉城研究室に所属し,自学自習で勉強していくことにした。

早く世界の研究者のレベルに追いつき,今現在の難題に自分も加わりたいとのあせりの気持ちがあった。卒業し,無給の副手となり,1932(昭和7)年に理学部講師に採用
されるも,まだ1つも研究論文がない。この年に結婚し,妻の両親といっしょに住み,子供も次々と生まれ,いろいろとたいへんであったと推察される。が,研究一途の湯川にとって,精神衛生上,結婚はたいへんよかったであろう。「日本人でもノーベル賞は取れるの?」と聞いた妻の明るさは,やや暗く,ひととあまり口をきかない湯川にはどんなにか慰めになったことであろう。
(村田 年)

『湯川秀樹日記』を読む ― ノーベル賞論文の発表と執筆の頃 (1)はじめに

Posted on 2009年12月12日

古本屋の店先に積んであるゾッキ本の山をぼんやり眺めていたら,「湯川秀樹日記」という文字が目に入る。湯川は日記を書いていたのか。新聞などの写真ではいつもきちんとした人だな,天才の異常さがないな,と思っていたが。伝記を読んだこともなかったので,この日記を読んでみることにした。
*小沼通二編『湯川秀樹日記―昭和九年:中間子論への道』朝日新聞社.2007.

湯川のノーベル賞受賞の報道が新聞・ラジオを賑わせたのは,1949(昭和24)年11月のことで,私は小学校の6年生であった。まだ敗戦の傷を引きずっていた頃に,これほど明るいニュースはなかった。私はまったく勉強しない生徒だったが,先生が「小学生新聞」を片手に,「原子核の中の粒子をとめておく糊のような役割をしているのが「中間子」なんだ」と説明されたのを覚えている。

天才湯川の研究生活は,われわれ教師が学び取るところが多いと思われるが,おそらく,会社に勤める事務職の人にも有益な示唆を与えるものと思う。現代は単に与えられた仕事を真面目にこなしていればいい時代ではなくて,だれであっても現状を見極め,将来への提案を考える時代で,すべての人はアディアを求められていると思うので,この日記から
多くの示唆が期待できるであろうと思った。
(村田 年)

結 論(「文化の相違」の問題の深さを認識し,問題追及型学習への地道な努力を傾けたい)

Posted on 2009年12月11日

厳密に考えると,私たち日本人の学習形態を変えるのはたいへんで,一朝一夕にはできないことですが,まずは,少しずつでも方向を変えていくことはできるでしょう。

1.知識を覚えさせるときに,必ずなぜそうなるかを説明する。
2.正解が1つしかない問題だけではなくする。
3.先生が用意した問題だけでなく,その場の発展で生まれた問題,生徒が考えた問題なども大事にする。
4.答よりも,解答の過程に評価の重点をおく。
5.生徒がうるさくても,出歩いても,すぐには叱らない。
6.言葉づかいや態度について,あまり注意しない。
7.人はすべて平等で,生徒と先生,店員とお客,平社員と重役であっても基本的な言葉づかいは同じだという考えを養うようにする。

暫定的な結論ですが,このようなことで,日本の文化の良い面は,積極的に維持する一方で,縦社会的な人間関係を,よりフランクな横社会的な人間関係に少し変えて,ことばを尽くして理解・交流をはかる方向に躾も教育も持っていければいいがと思います。 (村田 年)
(村田 年)

浅野:英語教育批評:「英語教育と地方分権」のこと

Posted on 2009年12月10日

(1)「地方分権」は大きな政治問題になっている。「地方」があるということは、「中央」があるということになる。アメリカ合衆国(合州国と書くべきとの提案もあった)のように各州の自治が発達している国でも、連邦政府があって、国防、外交、犯罪などに対応してきた。しかし、日本の場合の「地方」はどうも「お金」と関係が深い。族議員がいて、選挙区にどのくらい公共事業を持ってこられるかを競ってきたからである。
(2)こういう政治が長く続くと地方自治が育たなくなることは容易に想像できる。「長いものには巻かれろ」で、権力に頼っていたほうが楽でもある。しかも、景気の良いときには、橋だ、道路だ、鉄道だと生活が便利になることが実感できた。どうにか政権交代が行われても、すぐに理想的な状態になることは難しいようだ。政府も地方も戸惑っているのが現状であろう。
(3)日本は、戦国時代はともかくとして、江戸時代以後でも明治維新や第2次世界大戦の敗戦など大きな変革を経験したのである。そうした過去の経験から何も学ぼうとせずに、今の政権交代だけに大騒ぎするのは愚かであろう。少なくとも敗戦によってアメリカから与えられた民主主義がうまく根付かなかったのはなぜかをよく検証する必要があるはずだ。
(4)こういう観点から英語教育を考えてみると反省すべきことは多い。英語教育界では新しいものばかりを追いかけて、過去を反省したり、過去から学んだりすることに欠けていることは、以前にも指摘した。ここでは個々の学校と授業の関係を考えてみたい。
(5)授業は、生徒の実情に合わせて教材や指導法を選ばなければならない。一方、日本人であれば、日本のどこに住んでいようとも、教育の機会は平等に与えられるべきという大きな前提がある。ただし、文部省はこれを拡大解釈して、教育内容や方法まで画一的でなければならないと考えてしまったようだ。しかも、ここ十年間ほどは、「学校の多様化」を推進しながら、「英語の授業は英語で行うことを基本とする」と言ったりする。
(6)こういう矛盾に鈍感な英語教師が多すぎるのではないか?目の前の生徒を一番よく知っているのは自分だという自信を持って授業をすべきであるし、「長いものには巻かれろ」という態度では、迷惑するのは生徒だということを自覚しなければならないと思う。(浅 野 博)