浅野式現代でたらめ用語辞典(再開その28)
「フラッシュバック」広辞苑にも載っている用語ですが、心理的な働きに関係する複雑で重要な用語です。庶民の遣い方は?
知ったかぶり老人:わしだって、“フラッシュバック”のことくらい知っているぞ。写真を撮る時に光るやつだろう?年を取るとハゲ頭が光るな。うしろが光るやつを言うんだよ。
中学生ギャル:少し前に父ちゃんと母ちゃんとが大げんかして、離婚するなんて言い出した。その時のことが、私にはトラウマになって、勉強に集中出来ない。母ちゃんは、「お前この頃成績が下がったね。もっと頑張りなよ」なんて平気で言うんだ。
真面目男子大学生:“フラッシュバック”は、よく使われる用語ですが、実際に、特定の個人にあてはめて考えるのは難しい問題です。ギリシャ語起源の“トラウマ”(trauma)も心理的な現象ですから、上の女子中学生のように、悪い思い出が勉強に集中できなくするような現象はよくあることです。東日本大震災の復興もこうした被害者の心理まで考慮すべきです。安倍首相のように、「放射能は安全にコントロールされている」などという単純な考え方では真の復興などまだまだ先のことと言わざるを得ません。(この回終り)
「日英語ことばのエッセー」(その6)(“聞く力”とは何かを考える)
(1)私は“ベストセラーの本”というものは、すぐには読まないことにしています。“1発芸人のギャグ”のように、その1冊だけで終わってしまうものが少なくないからです。しかし、阿川 佐和子『聞く力』(文芸春秋、2012)には興味をそそられました。私が若い頃に、彼女の父親の阿川 弘之氏の作品を読んでいましたから、父親の DNA が彼女にどのように伝わっているのかにも関心がありました。
(2)『聞く力』は、2012年、2013年とベストセラーを続けて、「150万部を突破」と宣伝されています。彼女は、雑誌『週刊文春』の対談を約20年も続けていて、対談の相手は千人に及ぶとのことです。しかも、本人は非常に謙虚で、「新書本のような学問的な本など書く柄ではない」と最後まで出版をためらっている様子が「まえがき」に書いてあります。
(3)阿川さん(父親の阿川氏と区別するための呼び方です)の本の前に読み直しみたいと思ったのが、安井 稔先生の『新しい聞き手の文法』(大修館書店、1978)でした。先生に教わったのはもう60年も前のことですが、その頃から先生は眼がご不自由で、厚いレンズの眼鏡をかけておられました。その後ほとんど全盲に近くなられたとのことでしたが、ある大学の学長になられたり、90歳を超えてからも新しい本を出版されたりして、その精力的な活動には頭が下がるばかりです。
(4)ここでは英文法のことを詳しく論じる余裕はありませんので、安井先生が、“新しい聞き手の文法”の定義を“はしがき”で述べておられますことを簡潔に紹介します。その要旨は、英語を外国語として理解する立場であり、そのための文法を“聞き手の文法”としたということです。つまり、私たちが新しい人と話す時は、“相手が知っていると思われること”と、“知らないであろうと思うこと”を区別して話しますが、“聞き手”の側からの文法を解説しているのが、『新しい聞き手の文法』なのです。
(5)私は、阿川さんの『聞く力』を読んで、彼女が、安井先生の言われるようなことを意識しているような書き方をしていることに特に興味を感じました。日本語の「聞く」(listen)という動詞には、「尋ねる」(ask)という意味もあって正にコミュニケーションの基本なわけです。しかも、阿川さんの相手はいつも会っている友人や知人ではなくて、それぞれの分野の、しかも初対面の専門家なわけですから、ずいぶん緊張することだろうと思います。学校の教師はそういう機会に恵まれることは少ないので、つい“上から目線”で生徒に接してしまうことが多いのではないでしょうか。そういう態度を反省する意味でも、『聞く力』は読むべき書物だと思います。
(6)この本には35の項目がありますが、その23番目には、「初対面の人への近づき方」というのがあって、彼女なりの方法を述べています(p. 161~)。1つは、「相手の様子をよく観察する慎重派」、2つ目は、「自分から積極的に声をかける積極派」。というわけです。阿川さん自身は、「だいたい2番目のタイプに近い」としていますが、「会話のリーダーシップをとるほどの学識や教養もないので、てれ隠しに笑顔をふりまいて、必要以上に元気なところを見せる」といった趣旨のことを述べています。
(7)彼女は、テレビの番組にも出ていますから、その率直な話しぶりはご存知の方も多いと思いますが、対談の実際は、『阿川佐和子の世界一受けたい授業』(文芸春秋、2012)にかなり収録されています。対談の相手は、小澤征璽、五木寛之、養老孟司、市川海老蔵といった名士たちです。なお、この本には、作家の村上 龍氏と阿川さん親子を加えての鼎談も載せてあります。
(8)上記の鼎談の主題は「日本語について」で、阿川 弘之氏が、最近の言葉遣いについて、怒りを示しています。例えば、“こだわり”という表現は、「僕の言ったことに何時までもこだわるなよ」と言うなら許されるが、「最近聞かれる“美味へのこだわり”とか、“平和解決へのこだわり”といった言い方はおかしい」というわけです。
(9)“日常のことば”というものは、生き物ですから、時代と共に変化するということは認めざるを得ない点があります。拙著の『ブログ放談集』でも問題にしましたが、「日本付近は高気圧に覆われて・・・・」も私は違和感があるのですが、多くの日本人が違和感を持たずに口にするものですから、今では“正しい言い方”になっているようです。ちなみに、『明鏡国語辞典』(大修館書店、2009)は、「入口の付近が混み合う」の例を示しています。
(10)学校の授業では暗記、暗唱も必要でしょうが、言葉遣いの成否を考えさせるような授業を加えるべきではないでしょうか。特に英語の授業では、生徒の頭の使い方はそれぞれ違うことを教師は意識して教えるべきでしょう。そのためには、教師に“ゆとり”を与えるような行政的対応が必要です。現状では、「法律で縛りつければ、悪い教師を排除できる」と考えているようで、憂慮に堪えません。言葉遣いの難しさは、政治家がまず正しく認識すべきです。靖国参拝の後も、「私の言うことが理解出来ないのは、相手の能力不足だ」と言わんばかりの安倍首相の強気に危険性を感じるのは私だけでないと思います。(この回終り)
「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その5)(“引き算”の授業)
(1)「英語教育」誌(大修館書店)の2014年2月号の特集は、「“引き算”の授業改善で指導にゆとりを」です。私はこれを見た時に、「新しい指導法が生まれたのか?」と疑問を感じて、「それは“ゆとり”を生み出す魔法のような方法かも知れない」と思ってしまいました。
(2)目次の解説には、指導手順を見直して家庭学習などを通して、「本当に必要なことだけに絞る“引き算”の目線で授業改善を」という趣旨のことが書いてあります。それでも私には理解しにくい点が残りました。私だったら、「自分の授業手順をよく見直して、本当に必要なこととムダなことを見分けましょう」とでも言いたいところです。
(3)最初の記事は、太田 洋(駒沢女子大)「『引き算』目線で授業を見直す」で、若い頃に ALT から、「よく働くね」とか、「がんばるね」とか言われたことを紹介して、「先生ががんばる授業」から「生徒ががんばる授業」への転換を説いています。この“ねらい”は私にも分かります。
(4)私の記憶では40年ほど前にも、「先生中心から、生徒中心の授業へ」といったことが言われたことがあります。そして、“教授法”よりも“指導法”という言い方が優勢になりました。例えば、パーマー式の Oral Introduction (口頭導入)をする場合は、先生の独擅場になることが多く、生徒はもっぱら聞き役になりがちでした。太田氏もこの点に触れて、「場面を示す程度に留めて、内容につて質問をしてから後は生徒に教科書を読ませてはどうか」と提案しています。私もこの点は賛成です。
(5)2番目の記事は、畠山 喜彦(一関工業高等専門学校)「引き算でできたゆとりはこう使おう!――ゆとりを活用した授業デザイン」です。「ゆとりの活用」の例としては、「生徒とのインタラクション」「音読活動」「リスニング活動」などを挙げています。私はこれらにも反対ではありませんが、「平常の授業からゆとりを生みだすことは、そんなに簡単なのだろうか?」という疑念を払しょく出来ませんでした。中学でも高校でも、「教科書を終えることが難しい」という声をよく聞くからです。
(6)今回の特集では、11編の記事がありますから、全部を批評・紹介することは出来ませんので割愛させてもらいますが、「“現状分析”と“問題点の指摘”が欠けているのではないか」という疑問がどうしても残りました。そして、出来るならば、こういう特集では、中学、高校、中高一貫校それぞれの場合のように対象を分けてもらえると有難いと思いました。
(7)この号の「英語教育時評」は、森住 衛氏(桜美林大)の担当で、私が上記で指摘したような問題点が見事に論じられています。すなわち、「朝日新聞」の英語教育に関する記事を引用しながら、ご自分の賛否の態度を明確にしているのです。「ことばの学習は、“そのまま覚える”という受け身の要素を抜きにしてはならない」ことも指摘しています。学習段階では、理屈ばかり言っていては能率が悪いのは確かですが、森住氏の主張は生徒の目線を無視しろという意味ではなく、世間の英語教育に対する批判には、英語教師が答えるべきだということも述べています。
(8)こうした問題点の議論は、森住氏が担当している英語教育関係の授業で、学生相手に実践しているとのことですから、説得力があると思います。今回でこの欄の担当は最後だそうですが、もっと続けてもらいたいと私は思いました。英語教育を非難する声の中には、“個人差”とか、“個人の努力”といった視点が欠けていることがありがちです。したがって、もっと個人指導が徹底出来るような文部行政側の実践を強く望みたいですし、「英語教育」誌にも、このような視点からの特集をしてほしいと要望して終わることにします。(この回終り)
浅野式現代でたらめ用語辞典(再開その27)
「3Dプリンター」これを使うと、例えば、恋人の写真から実物に近い小さい立体像(ミニチュア)を造れるというプリンターのこと。
知ったかぶり老人:何?プリンター3台?そんなに要らんわ。俺は1台で満足しとるよ。カラー印刷も出来るしな。大したもんじゃよ。
中学生ギャル:私は“3Dプリンター”がものすごく欲しいよ。好きな先輩がいるんだ。でも母ちゃんは、「私のミニチュアを造ってどうするんだい?近頃は写真を撮られるのさえイヤなんだよ」なんて言ってる。わかっちゃいないなー。
超真面目女子大生:いくつかの会社が来春には実用化するとしていますが、カラーテレビが普及し始めた時に、「想像力を奪うもの」と批判されたように、こんなプリンターが普及したら、空想力は益々衰えてしまうと心配します。“便利なもの”には必ずマイナスの面があります。「東京新聞」(2014年1月7日)は、モデルガンなども本物そっくりに造れる危険性を指摘していました。(この回終り)
「日英語ことばのエッセー」(その5)(“訳すこと”と“文化の伝達”)
(1)英語の文章を訳す場合に、表現の裏に英語話者でなければ分からないような文化の問題があることはよく経験することです。英語の授業では教師が説明を加える程度で終わることが多いと思いますが、「それで本当に英語を教えたことになるのだろうか?」という疑問は教師自身が常に問い続けるべきことだと思います。もちろん短時間で解決できるような簡単なことではありません。
(2)マーク・ピーターセン『続日本人の英語』(岩波新書、1990)に次のような趣旨のことを述べた個所があります(p. 27~)。ニューヨークやハリウッドの人たちにとっては、“カンザス州”(Kansas)のイメージは、「木さえ少ない片田舎で、トウモロコシ畑ばかりしか浮かばない」。そして、日本人にとって厄介なことに、“カンザス”は有名な映画やミユージカル(例えば『オズの魔法使い』)などにはよく出てくると言うのです。
(3)大都会の人間が、“田舎者”をバカにすることは、多くの国で見られる現象でしょうが、それが人種差別などに繋がるとしたら、大きな問題です。映画の吹き替えや字幕のように、訳す場合の制限が大きい場合は、誤解を招かないように短く訳すことは至難の技でしょう。したがって、英語の授業では、十分な時間を取って、説明をしておく必要があるのです。
(4)私事になりますが、私は1956年にミシガン州から南部のニューオリーンズまで旅をしたことがあります。その途中でカンザス州カンザス市に立ち寄りました。ちょうどクリスマス・イヴでしたが、大学からの連絡を受けたホスピタリティ・クラブの婦人が出迎えてくれました。「クリスマスは各家庭で祝うので留学生を招くわけにはいかないが、ちょうど日本をテーマにした映画を上映しているのでそれを見て過して欲しい」とのことでした。映画は『八月十五夜の茶屋』(“The Teahouse of the August Moon”)というアメリカ映画でした。細部は覚えていませんが、沖縄を占領したアメリカ軍の将校たちの話で、文化の問題では違和感を覚える箇所がいくつかありました。
(5)かなり前の漫才で、「昨日はよくしゃべるおばさんに叱られたよ」「お前よりよくしゃべる人間がいたのかね?」「そうなんよ。相手は大阪の“おばはん”やった」。ここで、日本人の観客はどっと笑うわけです。私が指導したアメリカからの留学生は、その笑いの意味は分かりませんでした。下線の部分を“She was my aunt in Osaka.” と英訳していたのです。これではおかしくとも何ともありません。“文化の問題”は、伝えるどころか、理解することだけでも大変に難しいのです。テレビのバラエティなどでは、「日本人がなぜ大笑いするのか分からない」とこぼすアメリカ人は少なくないと思います。もっとも、意味のない馬鹿騒ぎもテレビでは多過ぎますが。
(6)ところで、文科省の方針である、「話せる英語教育を」という方針には全く賛成出来ません。外国語を話せるようにするためには、教育環境の整備と個人の努力を前提にすべきだと私は考えます。「教員を法律で縛れば話せる英語を教えるだろう」とか、「10年もやって、話せないのは英語教員のせいだ」とか言っている間は、日本の英語教育は全く無意味に終わると思います。
(7)日本では2回目のオリンピック、パラリンピックを迎えるのに、「おもてなし」が大事だなどと大騒ぎをしていますが、50年も前にアメリカの「おもてなし」(hospitality)を経験した私にほ、日本の「おもてなし」は、組織化されていないもろさを感じます。その原因は行政の消極性にあると思います。政治家は、個々の親切心をどのように組織化するかを真剣に考えるべきなのです。(この回終り)